事実も小説も奇なり!

学生相談室では年に数回、誰もが気軽に足を運べる相談室開放イベント「学生相談室deティータイム」を開催しており、ときどきその場で“本の交換会”を行います。これは、自分が読んだ本(他人に譲れる本)を持ち寄って、その場にいるみんなに紹介・提供し、興味を持った学生に持ち帰ってもらうもので、毎回5~10名程度の学生が参加してくださいます。次回は2月4日(火)の16:10から学生相談室で開催されますので、本好きの方、オススメの本がある方は、ぜひおいでください!

と、宣伝はそのくらいにして、今日はせっかくなので「本」を切り口に、思い出深い3冊の小説と、それらの作品を通じて縁のあった女性について記します。なぜ女性なのかって?「その人」あってこそ強烈な印象が残っている作品を挙げていくと、たまたま3人とも女性だった、というのが正直なところです。

○谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫、1947年)

あれは確か、1996年4月某日のこと。実家から上京して大学の入学式を終えたばかりの私は、東急東横線日吉駅の直上にある本屋で時間を潰していました。すると、入学前の新歓コンパで会ったばかりの同級生(女性)がやってきて、「私、この作品に出てくるナオミのようになりたいの」と言いながら、おもむろに谷崎の『痴人の愛』を差し出してきたのです。

上京したての田舎者だった私にとっては、夏目漱石の『三四郎』で、三四郎が美禰子に出会った時のようなインパクトでした。「やっべー…都会ってこええ。女こええ」とドキドキしながらその小説を買って帰り、その日のうちに読み終えましたっけ。…あ、言うまでもなく、その後一切、関係は進展しませんでしたけどねorz

今思えばあの頃は転生しなくても異世界だったわー。

○立原正秋『剣ヶ崎・白い罌粟』(新潮文庫、1971年)

ノストラダムスの大予言が世を賑わしていた1999年の10の月。私の知人(「友人」と書くのはちょっとおこがましくて)に、今では声優を生業としている女性がいるのですが、当時駆け出しだったその子に「舞台に出るから」と誘われて、友人たちと見に行きました。

そこで演じられていたのが、立原正秋の「剣ヶ崎」。当時、年に何度か舞台を見に出かけていた私にとっても、この舞台は知名度の高い声優(俳優)さんが出演されていたことや、声や視線や表情など、動き以外で語られる部分がすごく大きかったことから、強く印象に残っています。その後しばらく、「信じられるのは美だけだ!」という主人公のセリフを好んで使ってましたっけ(笑)。

「剣ヶ崎」は、戦時中の国家や民族を描いた硬派・社会派の作品です。ひよっこの役者が演じるには重いテーマですが、思い返せば、当時はまだ「戦争」が近かった(経験者が生きていた)し、さまざまな問題に対して社会が素朴に真摯にがっぷり四つに組んでいた、そんな気がします(年寄りの懐古主義じみてるなぁ…)。

この、時代による空気の重みというか質感の違いを、世代を隔てた今の学生さんに伝えることって難しそうです。あえて私の印象・感覚を作家の作風で例えるなら、当時は田中芳樹的、今は西尾維新的、とでも言ったところでしょうか。

○吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1982年)

私が教壇に立ち始めて間もない2008年、今では箱根駅伝の常連になっている某大学で、初めて受け持つゼミに所属していた読書家の女子学生から勧められた一冊です。主人公コペル君の成長や、彼を見守る大人たちの姿がとても清々しく温かいもので、読了後、なんだか妙に敬虔な気持ちになりました。

この本を紹介してくれた学生は、人間として立派に生きていて、教員が学生から生き方を“学ぶ”という、新鮮な経験をもたらしてくれました。同時に、私にもっと経験や知識や自信があれば、学生の才能や可能性をもっと伸ばせそうなのに…と、自身の非力を悔しく思ったものでした。

その後、私の教歴も15年近くになりますが、学生から学ぶ、という経験はやっぱり時々あるもので。本校ではかつて、学生が何気なく漏らした友人への言及に心打たれたことがあります。皆さんは、同級生(友人)や同僚を、憧れと尊敬と全幅の信頼を込めて「あいつはすごいやつですよ」なんて言えます?私みたいにちっぽけな大人になってしまうと、他人を認めるのはけっこう怖くて、とても勇気がいるんですよね。

ともあれ、そうした思い出と共にある本書は、謙虚さや余裕を失ったときに読み返せば少しだけ正気に戻れる、そんな回復効果を持っています。

今回もくだらない話を書き綴ってきましたが、本って、たぶん人生をちょっぴり豊かにしてくれます。思い立ったらその日が吉日、周囲の誰かにオススメの本を聞いて、読んでみてはどうでしょう?

(学生相談室長 児玉)

「なぜオートバイに乗るか。」

私は,高校を卒業してからオートバイに乗っているので,かれこれ35年以上オートバイに乗っている。しかし何の工夫もなく乗っているので運転は上手くならない。むしろここ二十年ぐらいは体力の衰えと伴に運転が下手になってきているように思う。

 そんな私がなぜ35年以上もずっとオートバイに乗り続けているか,基本的にオートバイが好きだからである。しかし,ときどき思うことがある。

 テレビの特撮ヒーロー,(昭和の)仮面ライダーやキカイダーの影響か?子供の頃からオートバイが好きで,小さい頃は,隣のうどん屋さんの配達用のカブに勝手に跨り,マフラーに足がついてよく火傷をしたものである。中学生の頃は友達と休み時間や放課後によくオートバイの話をしていた。

しかし私が高校生のときは,三ない運動(高校生に「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」運動)が真っ盛りの時代で,私の通っていた高校もオートバイ・自動車を禁止していた。

そこで私はホームルームの時間に行われていた3分間スピーチで,オートバイ禁止の校則に反対するスピーチを行った。内容は,「学校はただオートバイを禁止するのではなく安全教育をすべきではないか。」「在学中はオートバイに乗らず,卒業してから乗って下さいというのは如何なものか。教育の放棄ではないのか?」等々と言うことを,他の生徒は1,2分しか喋らない3分間スピーチで私は延々と長々と喋った。担任の先生には誉められ,スピーチの原稿を教室の掲示板にしばらくの間張り出してもらえた。

また学校では,色々な校則について,各校則にグループごとに分かれて議論をするという学校行事があり,オートバイ禁止を議論するグループに入った。しかしその学校行事は,校則を変えるというものではなく,校則を題材にして討論の仕方を学ぶといった趣のものであったように思う。

しかし,3分間スピーチやそういった学校行事で校則が簡単に変わるわけもなく,私は何も変わらないと思う様になり,あきらめた。そして,(三ない運動だけが理由ではないと思うが,)高校生生活を,斜めに構え,冷めた目で送る様になった。

そういうことがなければ,とっくにオートバイに飽きて,もう乗っていないのではないかと思うことがある。

御分かりとは思うが,校則を破ってオートバイに乗っておけばよかったと言っているのではない。

好きなことを途中であきらめて斜めに構えなければ,校則が変わらなくても最後まで闘っていたならば、あきらめてもそれを理由にして冷めた目で高校生活を送らず,別の何かに興味を持っていれば,もうオートバイに飽きていたかもしれない,と思うのである。

後悔しているわけではない。途中であきらめて斜めに構えた一種の後ろめたさ,そのときの満たされない思いで今でもオートバイに乗っているのではないかと思うことがあるだけである。なすべき時に,なさぬのは思いを残すだけである。

と理由を付けたが,オートバイが好きだから乗っているだけである。何かと理由を付けても意味はない。だいたい40年近く前のことで記憶も定かではない。というよりほぼ覚えていない。

取り留めのない話になってしまったが,このブログ連載の目的の一つが,学生相談室で,取り留めのない話でも一緒にしましょうというお誘いですから(違うか?)まぁいいか。

機械工学科 谷川

今しかできないこと

電子制御工学科の清原です。私の趣味は海外旅行である。大学院の学生(23歳)のときにアメリカ精密工学会の国際会議で発表するためワシントン州シアトルを訪れたことが事の始まりである。国際会議の工場見学ツアーでボーイング社のエバレット工場を見学することができた。工場内は写真撮影禁止で2階から遠目にB(ボーイング)777の組み立てラインを見ることができた。工場横には試験用の滑走路があり、その近くにはでき上がった飛行機がきれいに整列していたことを覚えている。20年以上前のことであり、B777に関してJAL社は後継機種としてエアバス社のA(エアバス)350を選定し、今年9月1日に羽田-福岡間に就航し1日3往復している。

その数年後、ヨーロッパ精密工学会の国際会議で発表するためドイツのブレーメンを訪れた。国際会議での内容はすっかり忘れてしまっているが、雨季の豪雨で乗るはずだった飛行機がキャンセルになり、大変な思いをしたことは未だに覚えている。旅行会社の勧めで、KLMオランダ航空でアムステルダムからブレーメンに行く予定が、あまり乗りたくなかったルフトハンザ航空でフランクフルトを経由しブレーメンに到着、既に夜中0時を過ぎていた。同じ境遇の韓国人もアムステルダムからフランクフルトまで乗っており、機内で「次の乗り継ぎ時間がほとんどないのです」と他の乗客に話しているのが聞こえ、「間に合うといいですね」と言われていた(もちろん英語での会話)のだが、彼らはドイツのフランクフルト空港で違うターミナルに行ってしまい、それに付いていかなかったのは正解だった。ゲートに着くや「日本人の方ですね、韓国人の方は知りませんか?」と聞かれ、「違うターミナルに行きましたよ」と言うと待つのかと思いきや待たずに出発してしまった。旅行会社からドイツ人は自ら愛嬌をふりまいたり、サービスする国民ではないと言われていたので、オランダの航空会社を選んだのですけどね。ところで、この国際会議ではエアバス社のハンブルク工場の見学があり、民間旅客機A320の工場見学をした。ちょうど日本のエアバス社用の組立をすぐ傍で見ることができた。もちろん、ハンブルグではやはりハンバーグを食べました。

ボーイング社、エアバス社の飛行機の組立工場を見学後、どの路線にどの機種が飛んでいるのかを調べることに大変興味をもち、月刊翼(廃刊)、月刊エアラインを購読するうちに、実際にその飛行機に乗ってみたくなり、夏休みなどを利用して海外に行くことが多くなった。私が読んだ飛行機の雑誌は研究室に置いていたので、それを学生が読んでいたようで、ある日突然、「先生、航空大学校を受験したいので、休学したい」と言われた。ずっと、パイロットになりたくて、英語の勉強や視力の回復など今まで努力してきて、父親が退職間近なので今実行しなければ、僕の悔いが残る、「今しかない」とのことであった。ならば、パイロット目指して頑張ってと送り出し、いつか彼が操縦する飛行機に乗りたいと思っていたが、最近、父親と同じ職業で頑張っている。

 さて、2件続いたB737MAXの墜落事故、オートパイロットシステムを解除できず、誤った判断のまま墜落してしまった。たまたまか日本の航空会社は保有していなかった。現在、パイロット不足のため、経験の少ないパイロットでも飛ばせるように自動化が進んだフライトコントロールシステムを備えた飛行機が好まれるようである。パイロットのスキルの低下のため手動でコントロールできる領域を拡大することを好まないようだ。JAL社は今までエアバス社の飛行機を購入したことはなかったが、今年A350-900を導入した。今後、国際線仕様のA350-1000が導入されるとのことである。来年、5Gの運用開始で、自動車の自動運転も本格的に実用化していくものと思われる。高齢者の事故の多発を防ぐためにも自動運転は画期的なシステムであるが、何もかもを自動化してしまうと前述の飛行機のように誤動作で事故も起こり得るだろう。自動化が進む世の中ではあるが、最終的にどこかは手動の部分を残しておく必要があるのではないかと思う。

 最後に、本多光太郎先生の「今が大切」、林修先生の「今でしょ」と言われるように、今しかできないことが学生時代には多々あると思う。私は23歳で初めての海外デビューだったが、舞鶴高専の学生は、研修旅行で海外に行くので20歳前にして海外デビューすることができる。折角、パスポートを取得したのだから、学生時代に色んな国を回ってみてはどうだろうか。あたり前だと思っていた日常生活が、海外の風習、習慣を体験して、日本ってなんと素晴らしい国なのだろうと再認識できるかも知れない。  飛行機や海外旅行に興味があれば、日常生活も含め、研究室でお話ししませんか。

空気は吸って吐くもの(ドラマ「凪のお暇」より)

周りを見渡すと、自分の気持ちや考えをはっきりと表現するタイプの人もあれば、なかなか本心(本音)を表現しないタイプの人もいるのだなと思います。ひとりひとりに美学や信条があるのかもしれないなと思いつつ、そのひとの生きざまをもう少し知りたくなることが多いのは、職業柄も関係しているでしょうか。

 以前、乳幼児健診の仕事に就いていた際、2歳未満の子どもの様子で私が特に注目していたのは、“おもちゃの取り合いをどんな風にしているか”でした。欲しいおもちゃを他の子が持っている時に、(最初は貸してもらう術など知りませんから)ちゃんと取りに行くのか。そして、抵抗されたり、反撃されたとき、どのような様子を示すのか。また反対に、遊んでいるおもちゃを急に取られたとき、どのような表現や対処をするのか。この場面にコミュニケーションの源泉が凝縮されているように思うのです。

しかし昨今は、ここに早い段階で多くの親御さんが参入してこられます。特に子どもがおもちゃを取る側になりそうなとき、間に入り、その行動を阻止されることが多いのですが、取られる側のお子さんに“貸してあげようね”と説得する場合もあります。(親御さんの思いも重々承知しており、思うところはいろいろありますが、長くなるので割愛します)

 長い目で、コミュニケーションを考えたとき、まだことばが備わっていないこの時期に、しっかりと心(気持ち)を基に全身で欲求を表し、(うまくいくこともあるでしょうが)しっかり抵抗したり(されたり)、時には反撃したり(されたり)して、もみくちゃになっておくことが大切だと思っています。そして、そのなかで、まずは自分の気持ちを大事にしながらも、相手の様子もみながら、気持ちや行動をコントロールし、うまくいく方法を編み出したり、学んだりしていくのではないかと思うのです。

 人は、ことばの発達とともに、自分の気持ちや考えをことばで表現することが暗黙の裡に社会的な要請となっていきます。成長とともにコミュニケーションはどんどん高度になり、そして、心と身体でぶつかる人間関係は問題視されるようになりがちです。

この夏「凪のお暇」というドラマがありました。主人公の凪さんは、周りの空気を読んで、合わせてきた人。やがて、空気は凪さんの心身に行き届かず苦しくなり、会社を辞めて、自分のためにお暇を取ることを決めました。このドラマのかなり最初の方で、「空気は吸って吐くものなんだ」という決意のようなセリフがありました。私はそれを聞いて、「自分の中に浮かんだ気持ちを外に向けて表現するのは自然なことなんだ」というようにも受け止めました。

みなさんのなかには、「人生は控えめに、静かに過ごしていく」という方もあると思います。しかし、もしも今、自分の気持ちを言わない(言えない)ことで、苦しい、しんどい日々を過ごしておられるなら、安全な場所、信頼できる人との間で、少しずつ表現してみる練習を始めてみませんか。思っていることのすべてを言えばいいわけでもありませんし、うまくいくこともいかないこともあるだろうと思います。それでも、ある日ふと気づいたら、少し息することが楽になっていたらいいなあ、そのお手伝いができればうれしいなと思っているカウンセラーが学生相談室にいます。よかったら、まずはのぞいてみてください。

(カウンセラー 中川)

やる前が一番楽しい

電気情報工学科の七森です。
7月のブログ担当を務めさせていただきます。
お話をいただいた時から何についてお話ししようかと考えていたのですが,結果的に月末になってしまいました。

今回は夏休み前ということもありますので,趣味について少しお話ししようと思います。 趣味は何ですか?と問われた時に私は「釣り」と「車」と答えています。

「釣り」については中学生のころから始めたものですが,当時は池や川でブラックバスを釣るいわゆるバス釣り専門でした。(今は海釣り)
家から中学校を通り過ぎて,さらに今来た距離と同じほど行くと池がありました。
当時は中学生でしたが,朝4時に起きて釣りに行って6時30分に家に帰り,そこから学校へ行くようなことをしたこともあります。

こんな感じです。

さすがにやりすぎました。
真似して単位を落としても私は責任を負いませんので,真似しないでくださいね。

しかし,趣味とは不思議なもので一見面倒なこともすごく楽しく思えるのです。
個人的に一番面白いのは何といっても準備とメンテナンスです。
釣りに行くことを想像しながら,どんなルアー(疑似餌)を持っていこうとか,糸の太さは何号にしようとか。
どんな魚を釣るのか,何で釣るのか,どこで釣るのか,いつ釣るのか。

そんなことを考えながら準備をします。
釣りから帰ってきたら塩水に触れた釣り具をキレイに洗浄して乾燥させます。
こんなことがすごく面白いのです。


「車」の趣味はドライブもそうですが,車をいじることが好きです。
こちらはメンテナンスですかね。

車にはタイミングベルトと呼ばれるエンジン内のバルブのタイミングを合わせるために必要なベルトがあります。
通常走行距離が10万キロを超えると変えたほうがいいですよと言われるものです。

私はこれを「エンジンの中が見てみたい!」ということと「お金をかけたくない!」という二つの欲にかられ,自分で交換したことがあります。

写真がありましたので,載せておきます。

これは今でも非常に記憶に残っているいい体験でした。
真似して壊れても責任は負いませんので,真似しないでくださいね。(2回目)
自動車の整備会社でやってもらうことをオススメします。

これも,やるまでの準備が非常に大切でした。
まず中身をある程度理解して,どういう工程を経て交換するのか。
頭に入れてからでないと分解して分からなくなったら大変ですからね。
以前の毛利先生のブログでも段取り八部という言葉がありますね。
(私の場合,マンガみたいに最後ねじが1本余ったことは内緒です笑)

こんな中身を理解したり,想像して準備したりすることが好きです。
しかし私は高専出身でもなければ,機械科でもありません。

面白いことをすることに理由は必要ないと思います。
自分はこうだから,こうあるべきだ。と勝手に決めつけずに自由に好きなことをすればいいと思います。

ただし,「本気でやる」こと。

それが面白さを引き出す秘訣だと考えています。
また興味がある人はお話ししましょう。

最後に,一言。
夏休み,勉強も忘れずしましょうね笑

6月、思い出の味のひとつが遠ざかる

建設システム工学科 渡部昌弘

6月6日、広島県尾道市内にある、某老舗中華ソバ店が無期限休業に入るというニュース記事を見てしまった。寝耳に水とはこのこと。我が家では、というか特に尾道で青春時代を過ごした父にとっては、老齢期に起きた一大事である。私にとっても実家の家族にとっても思い出の味であり、SMSにそのネット記事の概要や休業の理由などが飛び交い、皆大きな喪失感を感じたものである。

その中華ソバ店・朱華園(しゅうかえん)は、我が家では、というか地元の人たちも「シュウさん」と呼んでおり、ラーメンの特徴は、大量の背脂と甘みを感じるが喉がむせるくらいの濃いめの醤油スープ、細く平たいがモチモチとしたストレート麺といったもので、尾道ラーメンの原初とも言われている。もっとも知名度が上がったのはある作家が雑誌で紹介したためということらしく、その記事の該当部分を抜粋した銘板が飾ってあった。

初めて食べたのは、小学校高学年の頃に法事で尾道に行ったときであったと記憶している。当時から行列ができており、(中華料理店みたいなものはともかく)ラーメン店自体行った記憶がなかった上に、更に並んでまで食べた初めてのラーメンであった。ところが、子どもが食べるにしては、粗漉しで(というか漉していたのかよく分からないくらい大きい)塊感のあるそこそこマッシブな背脂が地味に重く感じられ、味も濃いことから「スープは飲んだらダメ」とか言われていたような記憶もある。結局飲んだけども。

その後、高校以降も家族旅行で(というか父方の親戚に会いに)尾道に遊びに行ったときに何度か店舗で食べたのだが、年齢を重ねる毎に旨さに気づいていった。といっても体重が52kg前後で推移していた20代半ばまでは、食が相当に細く、身の回りの出来事などもあって脂がかなり重たかったと記憶している。振り返ってみると、人生の様々な局面を思い出させるキーアイテムのようにも感じる。

さほど頻繁に尾道には行っていなかったが、年1、2回くらいのペースで親戚から持ち帰りセットを送ってもらっていた。あるときは、そのスープ、麺、具材を使って、お替わり代わりに家族で市販の麺を替え玉にしてどれが合うか等々試したりもした。縮れ麺や中太麺、細麺等々試したが、中々合うものがなく、組合せの妙に家族一同感心した(もはやスープを消費するだけのマラソンのような気もしたが)。ある時期は、しばらく実家の年越しソバとして存在感があった。(※地方配送はなく、持ち帰りセットがあり、地方発送は客自身が勝手にする、ということだったらしい)

以上が、その「朱華園閉店」で思い浮かべたことである。書いているソバから口の中で味が再現されてしまっている。これは歯がゆい。

思い出の味というのは、人生の中に何種類もあると思う。特に、誰かと話題を共有できる味や風味というのは、実際には味以上のことを思い出すことが多く、様々な記憶、心情が想起される。朱華園の中華ソバは、ソウルフードと言うには、まだまだ食べ足りない気がしており、休業は残念である。もし再開することがあれば、家族で是非行きたいと思う。

以上、建設システム工学科 渡部でした。

「母の日」に思う

田村修一

 私がこれまで聴いてきた音楽のなかでも最も衝撃を受けたものの一つに、ジョン・レノンのアルバム、邦題『ジョンの魂』(1970年発売、私が購入して聴いたのは1975年)がある。このアルバムは「母」(シングル盤では「マザー」という題であったが、当時のLPレコードのアルバムでは「母」の邦題であった)という曲で始まり、「母の死」で終わる。このアルバムはビートルズ解散後の、実質的にジョン・レノンのソロアルバム第1作と位置付けてよいものであるが、「ビートルズ」という巨大な虚構を自ら単身で叩き壊しているような凄味があった(「母」は発売当時イギリスのBBCやアメリカで放送禁止の指定を受けたとも聞く)。

 ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーの2人は10代で母親を失うという共通した体験を持っている。ポールについて言えば、彼のビートルズ時代の名曲 ‟Let it be” の歌詞のなかの “Mother Mary” は、「聖母マリア」と翻訳されていることが多いけれども、Maryはポールの実母の名でもあり、これは彼の実母を指していると解釈した方が良さそうである。またやはりポールの名曲 ‟Yesterday” も一見(一聴)失恋の歌ではあるが、実は母親を失った悲しみを無意識的にこのような形で表現したのではないかというようなことを、最近のポール自身が語ったとも聞く。

 さて私の場合であるが、私の母は5年前に他界した。ちょうど本校は夏休みのときで、亡くなる4日前から私は病室に寝泊まりし、また臨終の際も荒くなっていた呼吸が急に弱くなり、「その時」の訪れがはっきりわかる亡くなり方であったので、私と私の姉が懸命に声をかけるなか、眼に涙をいっぱいにためながら逝ってしまった。その涙にどういう感情が込められていたのか、あるいは単なる生理現象であったのかどうかは分からない。しかしじっくり看取ることができ、私は55歳であったし、母との永遠の別れ方としては非常に幸運な方であったとは思う。

 その母であるが、特にその前半生は数奇な運命をたどっている。母は昭和7年に4姉妹の3女として生まれ、物心のついたときには、台湾の高雄にいた。しかし昭和10年に母の母が亡くなり、母の父は後妻をもらったのであるが、その後妻にも女子の連れ子があり、5姉妹となってしまった。そこで私の母か、その上の姉(次女)のどちらかを養子に出そうということになったらしい。私の母も、その上の姉も継母を嫌っていたので、二人とも養子に出ることを希望し、じゃんけんで決めることとなった。その結果は私の母の勝ちで、私の母が養子に出されることになった。初めは台湾の嘉義在住の裕福な家庭へ養子に出されたが、そこの家庭の夫妻の離婚などのトラブルがあったらしく、いったん実家に戻され、しばらくして沖縄の那覇で料亭を営むM家へ養子に出されることになった。

 Mの家庭については母からいい話を聞いたことはない。「女は勉強などしなくていい」などとさかんに言われたとか。昭和19年10月10日、沖縄の人たちには「じゅうじゅう空襲」の名でよく知られる、那覇が壊滅的な被害を受ける米軍の空襲を母も体験した。私が母から聞いた記憶によれば、このとき母はM家に見捨てられたらしく、近所の人に手を引かれて沖縄本島北部の国頭というところに疎開したそうである。リアルな沖縄戦は体験しなくてすんだようである。戦闘が終わって家に戻ったときには、母が生存していることにM家の人々は驚かれたとか。

 母の「学歴」は実質小学校6年の秋で終わってしまったため、その事に対し母はコンプレックスを持っていた、機嫌の悪いときには、私や私の姉は「お前たちは存分に勉強できて幸せだ」というようなことをよく言われた(そのことに「幸せ」を感じたことは少なくとも私にはないのであるが)。しかし母は主体的に読書をしたり文章を書いたりすることはほぼ皆無で、「知的」な人間ではなかった。年老いてからも幼い頃に亡くした母が恋しい、とよく嘆いていた。私が高校生の時分には、すでに精神年齢としては母を超えてしまったような感覚があった。子供がそのまま婆さんになってしまったような人で、1人で死なせてはならないような責務を感じていた。幸い、そのことで後悔する結果にはならなかった。

 母には謎があって、出生した場所も分からなかったし、戸籍上は(よって保険証など公的書類すべて)昭和6年生まれとなっていたが、「実は私は昭和7年生まれで申年だ」と主張していた。母が亡くなった後、書類など整理していると、戸籍の昔の青刷りのコピー(M家養子入り後のもの)が出てきて、それにも昭和6年生まれとなっている。しかし、M家の養子となる前の父母の名前が、事実とは違う名前が記されている。そして、この戸籍は戦後、再提出されたものであることの記載がある。どうも沖縄戦により、那覇市役所にあった元の戸籍はすべて焼失したらしく、おそらくM家は少しでも早く母を働かせるために、1歳年上に鯖を読んで市役所に再提出したものと推定される。

 母が亡くなって1年後、熊本でまだ存命であった母の姉(戦前にじゃんけんで母と生き別れとなった次女)つまり私の叔母を訪ね、いろいろ尋ねたり、またそこには母の元の実家の原戸籍のコピーがあったので、謎はほぼ解けた。母の出生地は大阪市港区弁天町とあり、母の記憶通り、昭和7年生まれであった。妹(4女)は昭和10年台湾高雄市の生まれとなっている。母の実父のルーツは福井県(嶺北)であるということは母からも聞いていたが、母の実父は大正期に大阪へ出て、九条通りあたりで商売をしていたらしい。結婚相手(つまり私と血のつながった母方の祖母)は、大阪中之島の服部ハナヱという女性であった。母は大阪を下品だと言って嫌っていたが、ちょっと皮肉な結果であった。私自身についても、4分の1は大阪人の血が入っていることが判明したわけである。

 母の父は喘息持ちであったらしく、南の暖かい地域の方が良かろうということで台湾に渡ったようである。「山月記」で有名な中島敦も喘息持ちでパラオに渡っており、戦前には、喘息の持病を持っている人が日本統治領の南方・南洋に渡る事例が相当数あったものと思われる。戦後、元の母の実家は台湾から内地へ引き揚げることとなったが(引き揚げ港は広島県大竹)、私の母は米軍統治下の沖縄に残されることとなった。

 私が10代の頃までは「親孝行したいときには親はなし」という格言を良く聞かされたものである(「親孝行したくないとき親がいる」という罰当たりなパロディをのたまう輩もいた)。現在では高齢化社会が進行し、そのような格言のリアリティは希薄になったような印象もある。しかし55歳にして母を失っても、それ以降は、母が生きていたかつての世界とは違う世界に生きているという感覚から私はのがれることができない。

 「賽の河原の石積み」の話など授業ですることはあるが、親子関係、家族関係は千差万別、人それぞれで、なにか教訓的なメッセージを発しようという気はないのであるが、「母の日」のある今月、私のとりとめのない思いを綴ってみた。(をはり)

寮生会の新歓の寸劇を観て

こんにちは~

機械工学科・教員の村上です。

4月の寮生会の新歓イベントで、指導寮生が挨拶指導の一環として、挨拶をテーマにした寸劇をやっているのを観させてもらいました。(観ていない人もいると思うので簡単に内容を紹介すると、挨拶しない下級生・すれ違う上級生の反応を、色々なパターンでネタにする、という感じです。)

私は高校で演劇部に所属したので、演劇に対しては一家言あるのですが、指導寮生の寸劇は率直にとても面白かったです。今回の新歓だけでなく、スポーツフェスタの選手宣誓やサマーフェスティバルなど、高専にも意外と演劇要素が多い(?)と感じています。私の高校は男子校でしたが、舞鶴高専も男子学生の方が多いからか、観客を盛り上げるためのネタの選び方が皆さんとほぼ同じだったので、観ていて懐かしさがありました。

しかし、

(1) やはり女子学生がいるので、男子オンリーのときと比べて、必然的にネタやセリフの選択に制約をかけなければならない。

というのを、経験者からのアドバイスとして送りたいと思います。見ているお客さんすべてのことを考えなければなりません。そもそもテレビ等を観ていても、いわゆる下ネタや「いじる」など、簡単に盛り上がる・笑いがとれる手法を使い過ぎだと思います。こういう安直な手法に頼りきりになると、ネタを考える力が退化してしまいます。

もう一つのアドバイスは

(2) 舞台からはける(去る)とき、袖幕(ステージ両サイドの幕)に触らないように気をつける

ということです。なぜなら、幕が揺れて観客の注意が削がれてしまうからです。(入学式や卒業式といった式典でも幕が揺れまくっているので、いつか教職員にも伝えたいと思っているのですが…)

新入生の皆さんの中には、サマフェスなどの演劇的な要素があるイベントに対して、抵抗感を持つ人もいると思います。しかし勇気を出してやってみると、人前で演じる経験から色々なことが得られると思います。

とりあえず自己紹介を兼ねての投稿でした。 ではまたの機会に~

妄想に動かされる私

本当は先月のブログ担当だった牧野です。こんにちは。
「本当は」という言葉の背後に、大人の事情を読み取ってくれると嬉しいです。
端的に言えば、もたもたしていたということです。

さて、最近歳を取ったせいか、涙もろくなってきました。
見え見えのお涙頂戴テレビ番組でも、素直に泣くことができます。
優秀な探偵たちが何かしらする某番組を見ていて、涙もろいことで有名な探偵局長が泣いていない事案でも涙をこぼしている自分がいて、少々引きます。
「涙もろいとか言っているわりに学生にはドライだな」という正当なツッコミは、この際無視します。大人ですから。

もともと、物事に過剰な感情移入をするクセがあり、勝手な妄想を繰り広げ、勝手に盛り上がることが今でもよくあります。
感情移入する対象は人間だけではありません。
動物や植物になることもままありますし、本気になれば無機物の気持ちにもなれます。
割れた皿の気持ちになり、人間界への復讐を決意することなど、造作もありません。
「妄想に使う頭を仕事に使ったら?」という正当なツッコミも、私の耳には入りません。大人ですから。

こうしてみると、妄想することで泣いたりできるのですから、逆に暗い気分になったり落ち込んだりした際に、妄想によって自分の気持ちを無理矢理明るくすることもできるのではないでしょうか。
つまり、妄想癖を利用することで、自分の感情をある程度操作できるかもしれないわけです。
こうした仮定に基づいて、「単純な作業を行って、妄想の材料を頭の中で作り上げ、妄想を繰り広げる」という実験を行い、楽しい気分になれないかを試してみました。
その作業とは、「目に映る言葉の後ろに、「番長」を付ける」というものです。
ツボに入る「番長」が見つかれば、その時の自分の気持ちは少し明るくなっているはずです。

とりあえず、いま私の目の前にあるもので、ちょっとやってみましょう。
・ハンバーグ番長(多分、わんぱく)
・キリシタン番長(隠れたりなんかしないぜ!)
・のどあめ番長(荒々しくも、のどすっきり)
・鳥獣害番長(敵かな?味方かな?)
・あかちゃん番長(ばぶぅ!)
基本的には、長ラン・学帽・下駄あたりのアイテムをそろえた大柄の男性で妄想すると、どの単語でもある程度珍妙になります。
どうでしょう、少し楽しい気分になれませんか?

自分の感情をコントロールするのは、非常に難しいです。
「明るい気分になあれ」と祈ったところで、気分を変えることなどできません。
ですが、気分を変えたいときに行う作業を決め、それを行うことで妄想を広げるという手順を持っていれば、祈らなくても気分を変えることができるようになるかもしれません。
ぜひお試しあれ。

でも、授業中はやらないようにしてくださいね。

段取り八分とNo Plan

今回のブログの担当は建設システム工学科の毛利です。

月日が経つのが早く,いつの間にか春休みになってしまいました。長期休みに入ると,最低1回,旅行に出かけます。もちろん一人旅。あまり語るほどの旅ではないのですが(この学校には旅行の経験に関してすごい人ばかりなので聞いてみるといいですよ),強いて特徴を挙げるとすれば,わざと無計画で行くところです。

仕事や研究においては計画的に物事を進めることが求められます。入念に準備をして事に当たるべし。そのことを表す標語として,タイトルに使った「段取り八分」があります。段取り(事前の準備)が仕事の八分(8割)を占めているという意味で,以前勤めていた建設業界ではよく言われている言葉です。準備をして方針を立てていれば,いざ工事でトラブってもうまく軌道修正できることを私も経験してきました。

私の性分は,悪い意味で,几帳面,生真面目,完璧主義ですので,日常では段取り八分を過剰に意識して仕事,研究に取り組んでいます。それはそれで,計画,準備通りに事が進んだ時の快感やトラブルをうまく回避できた時のしてやったり感を味わっているのですが,そればかりだと考えすぎたり心配しすぎたりしてこころがしんどくなることがあります。そこで,旅に出ます。

どこかに行きたいという気持ちは日ごろから持っているのですが,わざと計画を立てません。余裕のある時にふとカレンダーを見て,今週末に以前ツイッターで見たあそこに行こう,などと目的地を決めます。移動手段は様々です。歌を歌いたいときは車,読みたい本があるときは電車,何もしたくないときは何かするとすぐ酔う高速バス,という感じで決めます。大人になって,宿に泊まることを覚えましたが,学生の頃はネットカフェか夜通し走ってとんぼ返りか車中泊でした。最近は地図アプリが便利なので「どこにいるのか分からない」感を味わうことがなかなか難しくなっていますが,移動中,目的地までの寄り道を開拓するのには役に立ちます。かっこいい建築物やシブい町並み,うまいラーメン屋に巡り合えたら最高です。

そして,最後にちゃんと戻ってきます。戻って,経路をおさらいしたり,撮った写真を眺めたり,人に土産話するまでが旅です。あと,旅の経過をSNSでリアルタイムに報告するのは一般人がやると危険なのでやめたほうがいいですよ。

と,ここまで書いてみると,案外普通のことを言っているに過ぎないと感じてしまいました。この程度のことなら学生の中でも経験済みの人がいることでしょう。しかし,一見平凡な旅でも私からすると,意識的に無計画に事を進めて「何も考えんでもなんとかなる」ことを再確認している気がしています。仕事では段取り八分は好きですが,人生としてはNo Planが好きな気がします(年取ってこんなこと言うと皆に心配されるけど大丈夫)。